じゃがいもの発芽日記

じゃがいもが発芽したよ

自己啓発本

目の前にずらっと本が並んでいる。

私は本が並んでいるのが好きだ。好きな時に、手に取れるのが好きだ。

だから、しまい込まずに目に付くところに置いている。

ここ最近はこの本棚に、自己啓発本が増えてきている。

姉から勧められたワタナベ薫さん、浅見帆帆子さんの本がなかなか読むことができないまま積まれている。

キラキラ企業女子、の本である。姉にそう言ったら怒られるかもしれないが。

大変マインドが高く、引き寄せの法則を訴えている。

私からするとスピリチュアルというのは少し眉唾でもある。だが、それが好きでもある。

このちょっとしたアンバランスさが、スピリチュアルのスパイスのようなものなのではないかと思う。

信じたいけれど、信じがたい。だが、信じてみたら何か変わるかもしれない。

そういう安易さの表裏一体、というところがミソだ。

ちなみに、私が好きな本はメンタリストDigoさんの本で、メンタルサプリ、という本である。

心理学の面から、科学的にスピリチュアルに切り込んでいるところが特にお気に入りで、眉唾ものも裏にはそういった心理学的要素が隠されていると思うと信じる気になれる。

ん、待てよ、と心に問いかけをする。

スピリチュアルが好きな姉。科学的根拠に基づいたものの方が好きな私。



全然違うじゃないか。



情けないかな、そんなことに今更気づく。

積まれている本が読まれないはずだ、と苦笑しながら、借りた本を手に取る。

とりあえず、読んでみようかな。

姉と自分の違いを、明確に感じられるようになるかもしれない。

新しいパソコン

前回のブログにも書いたけれど、新しいパソコンがやってきた。

白いボディのかわい子ちゃんは、価格ドットコムで一位で、コスパがいいという理由だけでやってきたパーフェクトボディちゃんなのだ。

少し大きいけれど、それなりに使えるしレスポンスも早い。

満足している。

さっそくダウンロードした音楽を聴きながら、いろんな文章を書いていく。

最近練習していなかったせいで、本当に文章がへたくそになってしまっているな、と思う。

その練習を兼ねて、このブログを始めたので、いつか実を結んだらいいなと思う。

音楽と、文章が書ければそれでいい。

それだけのために購入したパソコンなので、とても満足している。

母がウイルスバスターの三台目の権利を私にくれたので、大変安全に過ごさせてもらっている。

ありがたいことである。

私の初代のパソコンを買ったとき、10万円ほどしたことを覚えているけれど、今となっては4万円で買える時代になってしまったんだな、と思う。

進化はうれしいし、安いのはうれしい。

安かろう、悪かろう、ではよくないとは思っているけれど、やっぱりなんだかんだでコスパを考えてしまって、安ければ、と思いがちな自分もいる。



自己啓発本を読んでいると、良いものを持つことが大事だ、と書かれていることが多い。

特に女性向けのものは、品質の良いものに包まれることで自分のマインドを高める、と書かれている本が多いように感じる。

私は必要なものが、それに応じた金額であればいいと思っている。

品質が、というよりも、自分が求める品質であればいい、としか思っていない。

高ければ、高いほど良いのだろうけど。

私はそこまでを、パソコンに求めていないというだけなのだ。



好きな音楽と、文章。ちょっとの写真のスペースさえ確保できれば、それでいい。

それが、私にとっての、良いもの、である。

 

 

お気に入りの音楽

新しいパソコンがやってきて、私はうきうきした気分で包装をはがしていく。

何をするかはもう決めていた。

パソコンをインターネットにつなぐと、情報の波を泳いで、目的のサイトにたどり着く。

有名な音楽ソフトの公式ホームページが目の前に広がった。

ダウンロードを告げる画面を見ながら、そのソフトの中に入れる予定のCDを見つめる。

全部で15枚。レンタル金額2300円相当。

アルバムばかりが並んでいる。

ずっと、Ipodを更新したかったのだ。

このIpodの中に詰まった音楽は、いろんな記憶と結びついていて、それは時折私を苦しめた。

ダウンロード画面が終了し、ソフトが起動する。

Ipodの初期化のボタンを、押す。

長年かけて集めてきた音楽のすべてが、一瞬で真っ白な状態になった。

そして、時間をかけてアルバムを詰め込んでいく。

新しいアルバムはどんどんとインポートされて、見知ったIpodが他人のような顔をしてこちらを見ている。

まったく違う曲の入ったIpodは、私に素敵な音楽を提供してくれる。

ずっと、ずっと、自分を更新している。

古いものを捨てて、新しいものを入れて、そうやって自分を更新している。

たまに、思う。

こんなことをして意味があるのかな、って。

使えるものも、捨てて、新しいものを買って。

でも、そうしたいからする。

意味なんて、結局後付けでしかないのかもしれない。

そうして更新した自分を引っ提げて、今日も毎日を生きる。

素敵な音楽は、きっと私を新しい明日に連れて行ってくれると思う。

 

忘れられない言葉

「おれは楽しくやってるよ」

電話口でその言葉が聞こえてきて、愕然とした日のことを今でも覚えている。

口からは嘲笑がわずかばかりに漏れた。

不倫が発覚して、二か月。その言葉を元夫から聞くには、あまりに早すぎた。

そうか、と思った。

私は、一度も楽しいと思った日なんかないよ、と、心の中でつぶやく。

でも、それが相手に届くことはないのだ。

だって、こっちのことなんて気にしていないのだから。

愛していて、愛していたから、結婚して、そうして私はどうなったのだろう。

相手の心の中で、私という存在はどういうものに成り下がってしまったのだろう。

不毛だとわかっていても、それでも、自分が相手にとって大切なものでありたかったという気持ちが、泥のようにあふれる。

足元からずぶずぶと、ゆっくり飲み込まれていくような気がする。

暗い。

ここはなんて暗いんだろう。

あかりが見えない。

苦しくてたまらない。

私の望む形でなくても、そこに愛があるといわれたところで、私にとってそれは愛のカタチをなしていない。

そんなものを認めなければならないのだろうか。

自分の愛のカタチも、よくわからなくなってしまった。

自分が間違っている、とか、正しい、とか、そういうことじゃないんだろうけど、そういうことじゃないんだったら、私はどうすればよかったのか。

苦しい。

吐き出していくだけの日記になってしまった。

どうしようもない日は、一人、暗闇に飲まれるようにじっとしているしかない。

お気に入りの音楽も、娘も、何の意味もなさなくなってしまう。

そんな日が、私にはある。

思ったよりも深い傷

「最悪だ」

目覚めてすぐに、そうつぶやいた。

見たくもない夢を見た。

離婚してから大分たつのに、そんな夢を見たのは初めてだった。

そこには自分がどんなに憎んでいて、どんなに復讐したいと願っているのかが、ありありと映っていて、目覚めた瞬間から陰鬱な気分になった。

娘を保育園に送って行って、それから母親に向かってこう言った。

「最悪な夢をみた」

保育園に送っていく間も、ぐるぐると回る負の感情に振り回される。

そして「どれだけ向こうのこと考えているんだよ」と突っ込みを入れたくなるほどだ。

でも、その突っ込みをいれた瞬間から、自分のことを考えよう、と意識をスライドすることに成功したことに、少し成長を感じる。

母は、嫌~な顔をしている私に向かって笑った。

「まぁ、仕方ないね」

私は言葉通り、ごろんごろんと部屋を転がった。

しばらく悪態をつきながら、転がって、適度な運動をすることでストレスを発散しているのだ、と説明する。

ようやく落ち着いて起き上がると、母は「あと六年はかかるだろうね」と言った。

私は、うへぇ、と露骨に嫌な顔をして、本当にむこうと顔を合わせたくない、とため息をついた。

「合わなかったら、三年くらいで忘れられるようになるかもね」

でも無理ね、と苦笑する。

娘がいる以上、面会させなければならない。

面会させたくない、とふてくされると、母は冷たい目線で私に言う。

「メリットだけを享受して、デメリットは得たくないというのは無理があるのでは?」

正論だ。

まごうとなく正論である。

私は仕方なく、はい、と返事する。

 感情というのは面倒だ。

いつもそれに振り回されて、心はジェットコースターのようである。

元気になれる日もあれば、激しく落ち込む日もある。

激しく落ち込んだ日には、家に引きこもっているし、元気な日はおかしいほどにテンションが高い。

壊れているのではないか、と思うときがある。

壊れているのかもしれない、とも思う。

言われた言葉が頭から離れずに、苦しい日がある。

どんどんどんどん、自分を追いつめてぎゅうぎゅうにしていってしまう。

そうすると、考えることが難しくなってくる。

自分の輪郭がぼんやりして、真っ暗な闇に溶け込んでしまったように感じる。

暗闇から手が伸びて、何かをしているような、そんな感じだ。

何もかもが億劫で、何もしたくないときがある。

でも、目の前にはそれを許さない娘がいる。

娘の世話をしなければ、と思うと、私の体は輪郭を取り戻していく。

母が言っていた。

「強い人にとって子どもは邪魔になるけれど、弱い人にとっては支えになるのかもね」と。

本当にそうだと思う。

私一人だったら、悲しみに押しつぶされて、自分をボロ雑巾のように扱ったに違いない。

それをしないのは、娘の存在が大きい。

私はこれから、一人で子供を育てていかなければならない。

 

だから、いろんなひとに、迷惑をかけて生きて行こうと決めた。

正確に言うと、助けてもらって生きて行こうと決めた。

ひとりで出来ることには、限界がある。

ひとりで頑張ったって、誰も褒めてくれない。

最初は、ひとりでやらなければ、誰も認めてくれない、褒めてくれないのだと思っていた。

そして、私は誰に認めてほしいのだ、分かってほしいのだ、と思って、また絶望した。

私の中にある、他人への承認欲求とかそういうものが、いつも私の邪魔をする。

それは幼児的願望から来ているのかもしれないし、そうでないのかもしれないけれど、私にとっては大変に重たいものだ。

これを捨てたい。

たまに。

恥ずかしいことだが、たまに、元夫とやり直せたら、と思う瞬間がある。

その時、私は逃げているのだ、と思う。

成長することよりも、今の自分と同じ程度の人間と一緒にいることを選択しようとする。

その方が楽だからだ。

私は成長したい。

この経験を生かしたいのだ。

そうしなければ、傷ついた気持ちも、苦しい日々も、何にも意味がなくなってしまう。

だから、もう元夫のことを思ったりするのはやめようと思う。

成長したい。

本当に成長したいのだ。

 いつかこのブログを読んだ私が、成長したな、と思ってくれることを切に願う。

そのために、私は、今、できることを考えなければならないのだ。

成長する自分のために、今、できることを探さなければならない。

 

一年後の私は、成長していますか。

自分の歪み

昔、実の姉に「あなたは彼氏のことを愛していない」と言われて、本当に怒り狂ったことがあった。

 

怒るのは図星の証拠、という言葉があるが、そうだったのかもしれない。

だが、同時に今でも愛していたのに、と思う気持ちもある。

人の感情というのはよくわからない。

 

最近になって、自分の恋愛観が恐ろしくゆがんでいることに気付いた。

とにかく、愛されたくて、誰かの一番になりたくて仕方がない病気だった。

友達の間はいいのに、彼氏になった瞬間に発動する呪いで、私はそれに大分苦しめられてきた。

 

ここのところ、いろいろ考えるうえで、これが自分に近いのかもしれないと思う部分があった。

それは、幼児的願望、というものである。

幼児的願望についてはこちらを参照してもらいたい。

私はまさにこれで、また私の親も神経症的な部分があるように思う。

だからこそ、甘えさせ方や、いろんなものを受け取るのが上手ではないのかもしれない。

親も人の子なのだから、できないことはあるのだ。

それをどうこう言ったところで、今の私の状態がよくなるわけではない。

とにかく、自分の穴は自分で埋めなければならない。

結局、愛されて育った人間と、愛されずに育った人間は、まったく違う生き物なのだということを受け入れるしかない。

姉は、私と妹に比べて、愛されていたのか落ち着いた人間になっているが、私と妹の欠乏ぶりは、なかなかひどいものがある。

そんな中で、妹は自分を変えることに成功して、そして自分を受け入れてくれる夫を見つけたことで、安定の一途をたどっている。

私はというと自覚したのも今だし、結婚生活は破たんしたし、もはや手遅れ感がすごい。

だが、私は「幸せになることを諦めたくない」という強い気持ちがある。

だからまず、私は幼児的願望を抱えたままここまで来てしまったこと。

でも、ここまで生きてこれたこと。

その運命を受け入れて、この私を受け入れてくる相手を探すしかない、ということ。

を、念頭に置いて生きていくしかない。

 

私は、ウサギやネズミのようにはなれないのだ。

ゴリラだから。

でも、ゴリラにはゴリラの幸せがあるはずなのだから。

それを見つければいいのだ。

私のシャバーニはどこにいるの。

 

ちなみに、幼児的願望を持っている人は、無意識に自分を傷つける人間を選んでしまうらしい。

 

恐ろしい。

見る目がないとはまさにこのこと。

意識をして相手を選ばなければならなかったのに、と今更ながらにあのころの自分に言ってやりたい。

過去には戻れない。

未来は分からない。

だから、今を生きるしかない。

 

明日のゴリラは、元気にしているだろうか。

元気にバナナをむさぼっているだろうか。

 

少なくとも、こんな悲しい気持ちでウサギを見つめるようなゴリラじゃないなといいなと思う。

同じ境遇の人間

私が結婚生活に終止符を打ったのは、三月のことだった。

基本的に、不倫された内容や、夫に言われたこと、不倫相手からの言葉などは、ここに書くつもりがない。

私は基本的に読み返す人間なので、悲しいことを書いてしまうと、それをまた自分に刻んでしまう。

それを避けるためにも、楽しいことを書いていこうと思っている。

三月がどんな季節だったのか、どんな気候だったのか、どんなニュースが駆け巡っていたのか、まったく思い出すことができない。

本当に、暗い沼の底にいたような記憶しかなく、部屋にこもっていた気がする。

一つ覚えていることは、小倉優子が三月三日に離婚したことで、私の親近感がぐっと湧いて、注目するようになったことくらいかな、と思う。

小倉優子は童顔で、幼いけれど私と年が近い。

勝手に同じ境遇のように思って、応援をしていた。時折、スピリチュアルなことを言うのが自分と似ていて、見ていて不安になったほどだ。

彼女はいつも笑っていた。無理をしてでも笑っている彼女の姿は、ほんの少し私の励みになった。

 

同じ境遇の人間、というのが、もう一人いた。

私の友人、彼は眼鏡をかけていて目がくりくりなので、デリカットとここではいう事にしよう。

デリカット君は私よりも年下の好青年だ。

結婚願望が強く、婚約をして幸せそうにしていた。

ところが、徐々にその幸せには暗雲が立ち込めてきて、気が付けば婚約を解消していた。

理由は、相手の浮気だった。

私の二か月ほど前に正式に婚約を解消し、破局したので、もともと仲の良かった私と意気投合していた。

だが彼は私と大きく違って、一緒に住んでいながらその実情に気付き、それを飲み込んでまで彼女と過ごしていた点だ。

私は本当に、浮気と不倫はNGなので、不倫が分かった瞬間に夫を家から追い出したし、離婚も即決めた。

でも、デリカット君はなんと半年もの間、それを知りながらも一緒に暮らしたのである。

ゾッとした。

同じ境遇にあるとはいえ、そんなことができるのだろうか、と私は思考を巡らせる。

 

無理だ。

私には到底耐えられない。

 

男と女の違いなのか、それとも私が短気なだけなのか。

不倫や浮気についてデリカット君とはよく話し合うが、彼の根底にあるネガティブさと後天的な発達を遂げたと思えるポジティブさの感覚が聞いていて面白い。

婚活を今頑張っていて、ぜひ素敵な女性を捕まえてほしいと思っている。

私たちは同士で、そしてお互いに楽しい未来に向けて頑張ろうと話している。

同じ境遇の人間は、案外いる。

先日も偶然同じ境遇の人と話したけれど、その人はあまり波長が合わなかった。

私は不倫を知って、そこからいち早く抜け出した。

その人たちは、不倫を知って、それでもそこにいる選択をした。

知って尚、相手に向かい合い続けることはものすごく大変なことだし、それができることは素晴らしいと思う。

でも、私はもうそこにいないのだ。

私には耐えられない、というだけの理由だ。どちらが正しいとか、正しくないとか、そんな話ではない。

同じ経験をしても、選択肢によって、こんなに違うのか、と思った。

彼女たちの幸せも、苦悩も、私にはわからない。

そして、私の苦悩も、幸せも、彼女たちにはわからないのだ。

 

だからこそ私は、デリカット君とこう話す。

「自分のための選択をしよう」

そして、その選択を正しいものに出来るかは自分にかかっているのだ。

デリカット君のハッピーな話が、いつかここにかけるといいと思う。